デカルトの心身二元論について
はじめましての方ははじめまして、そうでない方はお久しぶりですm(__)m
劾流と申します。
この下り、便利ですよね(笑)
取り敢えず言葉に窮したらここから入れば上手いこと韻を踏んでから本題に入れる。
元々私は文章が得意な方ではないので、こういったテンプレートがあるのは非常に心強いことです。
この言葉を考えたお人には深い敬意を評します。
さて、今回はタイトルのごとく「デカルトの心身二元論について」です。
デカルトとは、フランス生まれの哲学者であり数学者。
合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖としても知られています。
本名はルネ・デカルト。
1596-1650(53歳)なので、相当に昔のお方ですね(笑)
「我思う、故に我あり」という命題は、聞いたことがお有りではないでしょうか?
考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した命題でありまして、哲学史上において最も有名なもののひとつです。
この命題は、当時保守的思想であった「スコラ哲学」の教え、信仰による真理の獲得ではなく。
「人間の持つ自然の光」(理性)を用いて真理を探求しようとする近代哲学の出発点を簡潔に表現しているのです。
これが、デカルトが「近代哲学の祖」と呼ばれる所以となっております。
ただし、デカルトはそのすべてを信仰も根ざして考えており、著書方法序説においても神の存在証明を哲学的にしようと試みてさえいるのですから、驚きです。
初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比されます。
曰く、ここでの良識は「理性」と同一視出来るものであって、健全な精神を持つだけでは充分ではない。
この序説の目的は理性を正しく導くために従う方法を示すというより、デカルト自身が心得や考察に至るまでに辿ってきた道筋を示すものである、と。
彼自身が宣言したのです。
また、この書は当時、多くの本がラテン語で書かれる中、母国語のフランス語で書かれました。
女性や子供でも読めるようにです。
男尊女卑の世界において、デカルトはある種斬新な発想をもっていた、と評することができます。
さて、いよいよ心身二元論についてです。
松果体(しょうかたい)という、二つの大脳半球の間、そこの溝に位置する小さな分泌臓器において、独立した実体である精神と肉体とが相互作用するとした、簡単に言うとこれが心身二元論です。
分泌するのはメラトニンやホルモン、概日リズムを調節する物質ですね。
概念図としてはこんな感じ。
詳しく述べるとすれば、心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方です。
ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、つまりは脳が無くとも心はある、とする考え方を表します。
ただ実体二元論という一つのはっきりとした理論があるわけではなく、一般に次の二つの特徴を併せ持つような考え方が実体二元論と呼ばれます。
1.この世界には、肉体や物質といった物理的実体とは別に、魂や霊魂、自我や精神、また時に意識、などと呼ばれる能動性を持った心的実体がある。
2.そして心的な機能の一部(例えば思考や判断など)は物質とは別のこの心的実体が担っている。
実体二元論は心身二元論、物心二元論、霊肉二元論、古典的二元論などとも言われます。単に二元論とだけ表現されることもあります。
(べす、すまんな…君が正しかった…)
実体二元論は歴史的・通俗的には非常にポピュラーな考えではありますが、現代の専門家たちの間でこの理論を支持するものは殆どいません。
じゃあ何が正解かと言われると答えは出ませんが…
遥か昔から多くの哲学者たちが考え考え、考え続けてきた問題です。
答えはそう簡単に出るものではありませんし、また、出るものでもないと思われます。
そこへ行くと、夢野久作著の「ドグラ・マグラ」は面白いですよ。
全身でものを考える、いわば全身が脳髄である…と
凄まじく不完全燃焼感がありますが、今回はここで終わらせて頂きます。
ありがとうございました、体調が回復したら続きを書くかもしれません。