宗教における「神」とは
物々しいタイトルをつければ''らしく''なるかなと思いました。
ダメみたいですね…(諦観)
前回は愚痴記事で申し訳ございません。
人間、どんなに辛くても指は動かせるんですね。
声は出せず、寝れず、立ち上がれすらしないのにTwitterだけは元気にやってました。
Twitterすごい(錯乱)
さてさて、今回は普段のクソ記事から一風変わって「神様」についてのお話ですね。
無宗教の私ですが、とある事情から宗教の信者の方と拘留する機会を幾度かいただきまして。
もとより、私は考えを文章に起こして整理をする人間なので丁度良い機会として、拙い筆を取らせていただきます。
…と申しましても、私は基本的に脳内ハッピーセットで何も考えていないので、今回も例に漏れずクソ記事になる虞かあることをご承知置きくださいませ。
(以下常態)
御神体。
木や石で造られた神の像、祈りを捧げる対象はいつでもそれだ。
当然だろう、他に何に捧げれば良い?
見えないものを崇拝することはとても難しいことだ。偶像崇拝とはかくして産まれたのである。
だが、しかし。それは、単なる木と鉄の塊。確かに、神様の姿を象かたどったありがたい姿ではある。…が、本質的には物でしかない。私達が祈りを捧げるのに便利であるから故にそうしてそこにあるが、言ってしまえばただそれだけの物。だから、それは神様ではないのだ。
熱心な信者にとっては過激と聞こえるかもしれない。
しかし、最後まで見て、聞いて頂きたい。
神は、どこにでも居るし、どこにも居ない。私はそう考える。そして神は、私達一人ひとりに具体的な何かをしてはくれない。ただどこにでも居て、そして私達を見ていてくれる。
…ただそれだけの存在なのだ。
当然だろう。
祈りに応じて、その度に願いを叶えていたら世界は矛盾に溢れ、恐らく1年と持たない。
人の欲望は際限を知らず、どこまでも深いのだ。
しかし。神はすべてを知っている。
このこと自体が私たちにとって大いなる救いとなるのだ。
正直者は馬鹿を見るこのご時世。
財布を落としたら見つからないのを前提とするべきだし、快く思っていない人間の不幸には多かれ少なかれ喜ぶ。
どれだけ善良な人間でもこの例には漏れない。
誰にも見られていないと知った時、人は、自分でも驚くほどの悪を行ってしまうことがある。それは、人の持つどうしようもない弱さなのかもしれない。
けれど神の存在を知った人は、決してその弱さに流されてしまうことはない。何故なら、神が私たちを見ているから。
そう。
神は私達の全てを見ている。そして見てもらっているという事実が、私達が間違った道に進んでしまう事を防ぐのだ。
誤解を招きたくないので、一応言わせて頂くが。
決して、神が私達を動かしているわけでは、ない。
この意思は、この考えは、この私は。
私以外の何者でもないし、あってはならない。
「我思う、故に我あり」という言葉をご存知だろうか?
''思わない''我は我にして我にあらず。
ただの人形、醜い肉塊である。
舞台の主人公はいつでも自分。
しかしながら。
見守られているという思いで、私たち自身が正しい生き方を選ぶことが出来る。それこそが神の救いでなくて、一体なんだというのだ?
どんな救いだとしても、最後に手を動かすのは自分だ。そこに実をつける為にはやはり、自分で動くしかない。助けを求めることも、そこに誰かの手が差し伸べられることも、等しく自分の行動の結果なのだ。
神はただ、そこにあって見守るだけのものなのだ。
柄にもなく真面目な事書いた気がします。
難しいと言われる「禁欲」も、常に見られていることを意識すればやめられるのではないでしょうか?
少しでもなにかのきっかけになれたのであれば至上の喜びに御座います。
それでは、ここまで読んでくださって…ありがとうございました!
…私?私は見られてると思うと余計興奮して……//